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難民の家族呼び寄せの続き

*家族の在留資格取得までの道のり

申請は、当初RHQ(難民事業本部)、次にJAR(難民支援協会)の支援を得て行いました。まずは家族の手続き上の書類(子供たちの出生証明書、結婚証明書など)を入手しなければなりません。子供たちは混乱の時期に誕生したので正規の証明書は得られておらず、現地の裁判所で作成してもらいました。結婚に関しても、母国での家族同士の慣習婚による証明書はあったのですが、役所に届けて承認された民事婚でないと日本政府は認めないだろうと知らされていたため、自国にて弁護士を代理に立て、公式に民事婚を行いました。これらのことは、Aさんの身に危険が及ぶことがないよう配慮しながら作業しなければならず、申請に必要な書類の作成・収集には多くの時間と費用が費やされました。家族のパスポートについては、UNHCRが、「パスポートの代りとなる渡航証明書は、家族の在留資格認定証明が得られたらすぐに母国の赤十字から渡される」ことを確約してくれていました。漸く書類が整った段階で、弁護士を通して家族の在留資格認定証明の申請を2011年2月に初めて行いましたが証明書を得ることはできませんでした。その後2012年5月と11月に再度試みましたが同様の結果でした。入管はその都度却下の理由を開示します。難民認定から家族呼び寄せの申請まで、なぜ3年もかかったのか、この間、家族関係が本当に継続していたのか(偽装結婚ではないのか)、家族入国後の生活・養育計画がない、収入が少なく、生活保護を受けており入国後の生計は困難、などなど。11月の3度目の申請では、これらの理由に逐一応える内容の陳述書を提出しました。家族がやり取りしている私的メールの添付、月額約20万円の収入証明書、これに基づく生活保護の停止証明書なども添え万全を期したのですが、翌年3月にまたもや在留資格認定証明書不交付通知書を受け取りました。生活保護を止めたことは評価できるが、一家6人で現在の収入では再び生活保護に頼ることになりそうなので認められないということでした。毎日のストレスに加え、危険な状況下にいる家族のことが心配で、すっかり打ちひしがれ、もはや家族には二度と会えず、一緒に暮らすことはできないのではないかという悲しみで途方に暮れました。観光ビザで家族を呼び寄せ、つかの間でも顔を合わせたいと話したこともありました。それでも、母国の緊張状態はさらに悪化してきたので、新しい弁護士と相談し、不屈の精神で4度目の申請を決意しました。2013年の夏でした。少しでも収入を増やすために、RENでの夫人の就労予定確認書も提出しました。切々と心情を語る新たな陳述書も作成して、政府に人道的措置を懇願しました。新しい弁護士は認定されないのはおかしいとの判断で、却下の場合には裁判も辞さない決意でUNHCRとの話し合いも実行してくれました。全てを弁護士に託した形でしたが、なかなか結論は出ず、今回もダメだったとの絶望感が益々募り、仕事を変えたり、転居したり、失業したり、生活保護に戻ったり、苦しい日常がさらに続きました。それが突然、今年1月に、本人も驚く、家族の在留資格認定証明書の発行が認められました。

 

​日本に到着したAさん家族

*その後の経緯

突然に家族の呼び寄せが認められた喜びは大きかったのですが、3ケ月以内に日本に上陸しなければ、認定が取り消しになるという予期せぬ難題が生じました。家族のパスポート、渡航費/フライト確保、母国出国時のリスク回避、国内での住居・生活の検討などを、全く準備なしの状況から3ヶ月以内に解決しなければなりませんでした。家族が住んでいる街の治安は悪化していて、母国政府は頼れず、現地弁護士と赤十字、日本大使館が頼りでした。渡航費も家族5人で150万円程度かかりそうでした。母国からの出国は困難なので、川を渡って隣国に脱出しようかという案も検討しました。情報が錯綜して進展は無く、弁護士からも手を打っているから待つしかないと言われる中、時間が刻々と経過し、Aさんの焦燥も日毎に募っていきました。漸く明るさがみえてきたのは、3月中旬のこと。期限まで2週間でした。母国の日本大使館でビザが家族全員に発行されることが確定したのです。Aさんがネットで調べた、UNHCRの家族呼び寄せに関するガイドラインが役に立ち、弁護士とUNHCR、IOM(国際移住機関)との根回しもとても有効でした。出国当日はIOMの現地スタッフが自宅から付き添ってイスタンブール経由で成田まで。成田ではIOMの日本人スタッフがアテンドして入国申請を支援し在留許可証が発行されました。4月4日成田空港で、7年ぶりに家族と対面したAさんと家族の喜びは文章では表せません。Aさんは、一張羅の服を着て、夫人への花束を持って、朝7時ころから成田でそわそわしていました。前日は眠れず、真っ赤な目をしていました。8年間、子どもたちを守ってきた妻、すっかり成長した上3人の子供たち、故郷を出たときにはまだ生まれていなかった末の子、感動の対面でした。日本での当面の仮住まいについては、ISSJ(国際社会事業団)の尽力で入国2日前にJELA(日本福音ルーテル社団)の家族用シェルターに入れることになりました。

 

​再会を果たすAさん家族

*支援団体の連携

日本で始まった生活の支援は、FRJ(難民フォーラム)がアレンジして、諸手続き、日本語教育(さぽうと21、REN)、教室の場所提供(CTIC)、生活指導(ISSJ)、子供たちの学校手配、新居探しなどの課題をクリアし、8月に都内の3DKに引っ越し、9月から子供たちは小学校と中学校に登校する運びとなりました。妻も子供たちも、日本のことが気に入り、驚くほどの速さで日本語を習得しています。本人たちの努力もさることながら、さぽうと21とRENで日本語指導に当たった先生方の細やかなサポートのおかげです。まだまだ難題は山積していますが、支援団体の方々の心のこもった応援と一家の努力で乗り越えて行くと思われます。なぜ入管は家族呼び寄せの申請を何度も却下したのか、呼び寄せを認めてから上陸まで、なぜ3ヶ月という期限を設けるのか(途中、期限延長の可能性も検討しました)、理解に苦しむことが多々ありますが、呼び寄せが認められてからの国内支援団体のサポートと、世界の難民支援ネットワークの連携は見事で、その素晴らしさは実感しているところです。